昭和53年01月19日 朝の御理解



 御理解 第87節
 「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」

 腹は万代までの宝だと。神の氏子を宿すところであり、それゆえに私は万代までの宝だと教えられると思うです。ですから懐妊のおかげを頂いたら、神の氏子が我が胎内におると思って大切にせよと仰せられる。神様の氏子がいわゆる神様が宿られたんだと思うて大切にせよ。十月十日言うなれば、普通の状態ではない。これは女性の身ではないから実感は分からないけれども、やはり様々な困難な状態も続いて、それでもやはり神の氏子が胎内に宿って、神の氏子が出産と言う事だから。
 どんなに難儀があっても苦しかっても本当にそれは大変な難儀なことでしょうとは言わない。それはお目出度うとしか言わない様に、私共の心がそういう心の状態になる迄に、言うならば陰陽の結合、いわゆる結婚と言う事になる。私は今日ご神前でここで沢山の人のそれこそ十四・五組位と思われる合同結婚式があっておる様子を頂いて「まあ素晴らしいことだなあ」と思わせて頂いた。
 もう二荷一荷で大事だから一緒にしようと言うのではなくて、それが神様の願いであったかのような雰囲気の中でおかげを頂いておる様子であった。そしてその事を思わせて頂いとりましたら「情念」「常念」と言う事を頂いた。「情念」というのは情の念、又は「常念」というのは常に念ずるという風に頂いた。『恋の極楽、情の地獄、ままよ捨身のこの体』都々逸の文句です。信心を頂いて私共の心の中に言うならば、お徳をつくる基は私共の胎内心なんです。
 その心の中に言うならば宿るもの、次々と宝が言うならば産みなえれる、その母体となるものは心である、だから宿るまでの信心が言わば、大切にされなければならんと言う事である。「情念」というのは人間の勿論、言わば誰でもある通年です。それから次の「常念」とは常に念ずる、これは信心を頂いている者でなからねば分からない念です。信心を頂いて愈々信心の本質というか、お道でいうなら天地金乃神様のお心を、分からせて貰い、御心に添い奉る生き方を身につけて参りますと、一切が御神願である。
 一切が神様の私に下さるお働きである。そのお働きを私共はお働きと思えずに難儀という。困った事だと思う。ですからここんところをスッキリ一切が神様のお働きであると感じ、そしてそれが信じられた時、神様との本当の交流が始まる。そこから良いものが産みなして下さる為の働きが次々と起きてくる。それを私達は難儀という。困った事だと言うておる。その困った事とか難儀だと言う事を、そのまま言うなら神の種が自分の心の中に宿ったんだと「神徳」とは、そのまま神様の心と同じ心だと思うです。
 神様のお信用だと言うふうに説かれます。いうなら天地金乃神様と同質のもの、そこから神の氏子が誕生する様に神様と同じもの、お御神徳を次々と産みなして行く事が出来る。昨日ある方が「ご心眼」を頂いたという。竹冠を大きく頂いていわゆる筆という字を頂く、下の筆(そう)を小さく頂いた。またある人は蒲鉾のお知らせを頂いた。私共が神様と交流すると言う事は、どう言う事が大事かというと、素直になると言う事である。素直にならんと神様の心は分からん。
 それこそ素直心に徹すると言う事は、そのまま神様へならせて頂ける、言うなら手掛かりとなり、それこそ雲の上までも昇って行けれる道をも教えて頂ける程しの素晴らしいものなのです。その素直心が生まれて参りませんと次の、いわゆる蒲鉾のおかげになって来ない。その蒲鉾というのを魚と植物性のものを練り合わせて蒲鉾というものができます様に、生臭気というものは、人間生身を持っておる事を指すでしょう。植物性と言う事は自然の働きに依る恩恵と言う事になるのでしょう。
 その自然の恩恵と人間の持っておる、いわゆる生身と言うものが一つに混然として、これが練り合わせられる。そこに言うならば美味しい蒲鉾のおかげというか、お徳と言う事に成って来る。そういう味わいというか、昨日のお月次祭の中に皆さんに聞いて頂いた様に天地金乃神様と私共の交流と言う事は、一番肝心要なものは信心辛抱だと。信心辛抱と言うて、出来ない事を辛抱せろと言うのではない。出来る事を疎かにしてはならないと言う事。便所に行きたいサア辛抱しとけ、そういうもんじゃない。
 便所をこらえんならん、小便を堪えんならん事はない。その辺の取り違いをせん様にしなければならないが、その辺の言うならば味わいというか、信心はそれこそ信心辛抱の徳が身について神様の心が心として判り、一切を神様の働き見、言うならば泉尾の先生ではないけれども、一切が御神願として頂ける言うならば、実感というものが頂けない。理屈で判る事は御神願ですよと言うても、それを実感として判る事が出来ない。
 そこで昨日のご理解を研修中に井上太郎先生が発表しておりましたが、泉尾で修行中にこう言う事を頂いたと。そういう素晴らしい事を頂いて、どうして早く発表しなかったかと、まあ言うた事でしたけれども、やはり昨日のご理解を頂いて、その内容が判らせて頂いて、初めて意味が判ると言う感じの事であった。ある時先生がまあそれには前置きがあるでしょう。私は皆が神様の様に言うてくれるけれども、それでも私もやはり生身を持っているという意味のことでしょう。
 だから例えば昨日の御理解で言うと、二十四孝の八重垣姫の台詞じゃない、浄瑠璃のさわりの中にあります。皆この身のいたずらからという、そういういたずら心と言うものが、人間の心の中にはあるのだけれども、いたずらをする時には「神様ちょっと向こうを向いとって下さい」と言う様な時があるという、お話をなさったと言う事です。それこそ一切を御神願として頂ける、信心内容というものが、出来ておらなければ出来る事じゃない。恋の極楽であり、情の地獄である。
 そういう人間の言うなら、地獄も極楽も甘いも酔も、信心で頂きわけて来た人でなからなければ判らない事である。私は昨日そのことを頂いてから、なら合楽で成行きを大事にする、尊ばせて頂くと言うけれども、それを実際に行じて今日まで、それに徹してきて、はじめてあの御理解の意味が私は判ったんだと思うです。いたずら小僧をお母さんが追いかけておる。あれは昨日私は忘れておりましたけれども“丹下清子”という女優がおりますね。あの人がお母さん役をやって。
 そしてその言う事を聞かん息子を追いかけておるというお知らせを頂いたと言う事である。そりあ追いかけて行ってひっ捕まえて〔尻べんぷ〕こん奴ばっかりは言うこつば聞かんと言って一時ばかり蔵の中に入っとけとか、押入れの中に押し込む様な事もあるかも知れんけれども、いくら腕白小僧でもです、やはり子供は子供。その言うならばこども可愛いという一念の現れである。叩く事もさする事も。ですからその息子がですね、地団太踏んで頼むならば親は聞かん事はないという御理解でしたよね。
 もうお前がごたる悪僧坊主にどうしてやるか、それでもやっぱり地団太踏んで頼むならば親の方が、それこそ泣く子と地頭には勝てんでやっぱしお陰を渡す様なもんだと言う事もです。私自信成り行きを尊ぶとか大事にするとか、徹底してきたかの様にあってもです。ここは神様見らんでおって下さいと、まあ言う様な信心をたどって来て、昨日の御理解を頂いてみて初めて判った様な気がする。そのためには本当に地獄の思いもさせてもろうた。極楽の思いもさせてもろうた。
 けれどもギリギリの所は、それこそ泉尾の先生じゃないけれども、我身どうなってもと言う所にあった。言うならば捨身の信心です。そういう信心がです、身について初めて生みなされて来るものが宝である事に、分る事になるでしょう。心は宝を産みなす言うならば胎内と同じ事。そこにどんなに宝が産みなされてくる種が蒔かれてもです。それを難儀だ、困った事だと言うておるとそれがもう必ず流産と言う事になる。
 私共はここに徹してです、おかげを頂く時に、今日頂きます情念と言うならば、情念それが一つになって、それが言うならバランスの取れた常念、言うならば人間心と神心と言うてよいかも知れません。それから蒲鉾の様な、まあ私はお徳を受けると言う事だと思います。生身生臭気と植物とが、適当に練り合わされて出来上がる。そこんところを私共が、いつも心は信心の定規じゃによってと教えられますから、常日頃心行ができておらんと、その自分の心を推し量られる事にならない。
 こちらを一斤使うなら、こっちも一斤使うと言った様な計らいが自分でできない。そこんところをね、合楽の場合にはリズムに乗った生き方と言う事を申します。神様の働きを身近に感じる事のできれる、そういう天地の音律に従った生き方、教祖の神様はそういう生き方をなされたお方の様に思う。沢山お徳を受けられた方は、やはりそういう生き方を身につけられた方だと思う。合楽で言うならば集団結婚。本当に今の合楽の方達がです、神様との本当に交流を楽しんでゆく生活が合楽の世界である。
 そういう世界を目指して頂きたい。昨夜お月次祭が終わりましたら、そこの駐車場のこちら小さい方の駐車場、あそこへ自動販売機が据えられた。だから夕べ初めて外へ出させて頂いて、それから百円玉を入れと面白かごとでてくる訳ですね。幾つでん入れちみろうごとある、もう子供達を連れて行ったらなんぼでも面白がって出すだろうと、まるっきりそれこそ魔法の箱のごたる感じがする。
 百円玉を入れさえすれば、コロコロと自分の汁粉が出てくる。コーヒーが出でくる。シロップが出でくる。色々なものが出でくる。しかも熱いのがいいと言うや熱いのが出でくる、冷たいものがよいと冷たいものが出でくる。何と不思議な便利なものがでけたもんだと思います。けれども中にはちゃんとそれが入れてある。ネタが入れてあるのです。まるっきり魔術師のごたるね。手品を見る様にある。
 不思議なこっちゃある。どうして出るんだろうかと思うごとありますけどそこには、そこにちゃんと種があって種だけではない。そこに百円という硬貨を入れてなければ出てこない、入れれば面白い様に出でくる。信心のお徳というのは、そんなものだと私は思うです。一変して天地の大徳を身につけられるはずはない。それにはそれだけのネタがちゃんと仕込まれてある。なら徳があるからというて、徳はあの世にも持ってゆかれ、この世にも残しおけれると言われる。なら残しておけれるお徳でもです。
 なら二代が三代がこういう便利なものがあるからと言うて、こうしていくらごうぐった位の事では出りゃせん。やっぱり二代なら三代でも百円を投じなければ出てこない様に、もう正しく徳の姿とはそげなもんだとこう思う。徳を身に受ければ本当に素晴らしい。必要なものが必要に応じて、冷たい熱い甘い辛いが出でくる。合楽には必要になものが必要に応じて頂かれると。それにはそれだけの例えば素が仕込んである。昨日一昨日から二日がかりでこの経理の整理を今、久保山茂さんがおかげを頂いとります。
 昨日大体終って報告書を見せてもらった。丁度去年が一億五百万、お初穂が集まっとります。そして茂さんが経理の帳面を通して、あまりに経費を使い過ぎる。先日から皆さんが電話をかけておられるのを見ていると、もう電話のかけ方がとても下手だと。油も使い過ぎる。電気ももちっと心掛けけばもっとしまる事が出来る。これだけのおかげを頂きながら、残っておる金はないというのだからだからあなた。勿論記念祭というまあいろいろ五、六千万位残っておる事でしょう。
 一億からの収入を頂いてから。しかも合楽の場合は売上でなく、それがそのままもといらずですからね。大した事じゃあると。だから先生これでは例えば、今の様な状態では、言うならば四億からの今度の霊園、又はビルの建設は難しい。私は今度のビル建設は私の夢の様な事を、先日皆さんに聞いて頂いた事があるのですが。けれどもあそこはもう学校の様な所だ。勿論修行に全国から集まって来るでしょう。
 合楽の理念を体得したいと、言う人が沢山集まってくるに違いない。けれど信者の子弟もです。言うなら高校大学と卒業したならば、せめて半年なら半年、三ヵ月なら三ヵ月でも本気で合楽理念をマスターすると、言った様な働きになって来なければいけない。合楽理念をもってするより他はない。商売も合楽理念を持ってするより他はない。百姓も合楽理念をもってするしかない。
 結婚生活も合楽理念を持って、そこから頂けれる結婚でないと本当でない。というのですから、合楽理念を本当にそれだけに色んな角度から専念しての勉強する場と言う事になるだろうね。ここよりも何倍も広いお広前が出来るのですから、成程十人二十人の集団結婚も可能になって来るだろう。そういう神様の一つの夢というものが合楽にかけられておる。その実現を見る事のためにです。
 私共が愈々本気でです、本年元旦に言われる生みなす所の働きをうけなければできないでしょう。だから自分の心の中に、今こそ神の徳の種が宿ったと思われる、その事を愈々神願有難う御座いますというて、頂いて行くという生き方に極まった訳ですから、そこからしか交流はありませんし、又産みなされる事はありません。その産みなす力その事自体が、皆さんがお徳を受ける事です。
 お徳を受けたからもう、必要な物が必要に応じてと言う事ではありません。そこにはやはりお徳を仕込んで行く所の、信心修行がなされなければならない。同時に必要なものが必要に応じて頂けるためには、やはり百円玉がそこに投ぜられなければならない。いうならば思うまま意のままのおかげを、私共が頂かして頂ける様な徳が産みなされてくる。神の氏子が我が胎内に宿っておると思うて大切にせよ。
 又は万代の宝だと仰る。尽きぬおかげの頂ける、言うならば手立てをですね。私は今日八十七節から聞いて頂きました。例えば泉尾の三宅先生がそれこそ天地の親神様との交流から、あれだけのものを産みなしておいでられておる。その内容の中には、泉尾の先生でもやはり、生身を持っておられるのである。それと同時にその時には、それこそ神様に向う、向いとって下さいと、言う様な事が言える様な信心をね頂きたい。
 そこから次にはお神願有難う御座いますと頂ききれる。それと是とが一つにミックスされて蒲鉾のようなお徳を受けておらける。合楽でも一寸した一つの手本の様なものであります。胎教と言う事を申します。けれども胎教ぐらいの事ではない。良いものを見たり聞いたりする位の事じゃない。成程神様の働きを目の当りに見て、神様の声と思われる声を目の当りに聞く。
 それが教会であり御教えであります。その御教えが身につかせて貰わねば、徹底して身に付くと言う事が宿った。言うならば今までは難儀と思ったおった、それを言うなら宝が産みなされる、徳が産みなされる。それが素であると信じこませて頂ける信心を頂いて、愈々我が胎内に徳が宿ったと思うて大切にして、限りなく産みなしていくおかげを、そういう素を頂きたいと思います。
   どうぞ。